「無色というのは、何色にもなれる一方で、何色にもなれないんだ」
夏の透き通るような青空を見上げ、友人は寂しそうに呟いた。
逆光になりながら、かろうじて見えたその横顔は、ここではない、どこか遠い日々を見ているようだった。
*
「ジャック」
机の上に築かれたカードの山に、さらに一枚積み上げていく。
カードはいわゆる裏面の状態で、実際に何を出したのかはわからない。
手札と相手の顔を交互に見ながら、心がざわつくのを感じる。目の前に座る友人の表情は、先ほどから少しも揺るがない。
「……クイーン」
手札から一枚、山の上へ。手が震えている気がして、少しだけ息を吐く。
「そういえば、お前は今度のゼミ旅行行くのか?」
視線を感じて、思わずそんな話を振る。だが、友人はじっとこちらを見つめたまま、口を開こうとはしなかった。
「沖縄まで行こうっていう話だろ? 海とか綺麗らしいし、スキューバダイビングの体験とかもあるってさ。泳ぎが苦手な人でもできるって」
「大島」
冷たい声。中途半端な者がその視線の先に立てば、必ず風穴を開けられることだろう。実際、俺の眉間はもはや穴だらけだった。
「……なんだ」
じわりと滲む額の汗。口元が引きつるのを感じる。喉が張り付き、口の中が渇く。やたら耳につく、窓の向こうの木々のざわめき。ああ、今日は風が涼しそうだな。そうわざとらしく意識を逸らしてみたものの、目の前の視線からは逃れられやしなかった。
「僕も、君にこれを言うのは憚られるんだけど」
じゃあ言わないでくれ、とは言えない。それを言ってしまえば、俺の嘘を認めるようなものだ。
「言えば、いいんじゃないか」
「そうか。なら――」
眼鏡の奥の瞳が、より鋭くなる。
山の上に置かれたカードに、手がかけられる。
「ダウト」
めくられたカードは、クイーン、の代わりに出されたダイヤのエースだった。
「大島は本当に嘘が下手だよな」
結局逆転することもできず、第十三回ダウト選手権は俺の敗北で終わった。これで通算十三敗。これだけ負けを積んだのだ。今日こそ友人の――朔の悔しがる顔を拝めるのではと思ったのだが。
「僕もさほど強い方ではないと思うんだけどね」
「俺が弱いみたいな言い方するなよ……」
実際弱いじゃないか、と言わんばかりの視線がこちらに飛んでくる。その矢に当たらないように、目線を背けて受け流す。
「ゼミ旅行の話だけど、僕は行かないよ」
「え、なんでだよ」
「真夏に沖縄とか、自殺行為以外の何物でもない」
言いながら、朔がゼミ室内の空調をいじる。暑いだなんだと言いながらも、朔は長袖のシャツに薄手のニットのベストというスタイルを崩さない。去年の夏も、袖をまくることはあっても半袖にすることはなかった。涼しい恰好すればいいのに、と提案したこともあったが、半袖にしたら夏に負けた気がする、という謎の理論を展開されて以来、服装に関してはつっこまないことにしている。
「でも、大学最後の夏なんだし、皆でバカ騒ぎするのも悪くないだろ」
「うちのゼミに女子が一人でもいたら参加してたかもな」
野郎ばっかりで海に行ってもな、と眼鏡の奥の目を細める。
それはまあ、正直俺も思っていた。
「いやでも、ビーチとか行けば水着美女にも出会えるかもよ?」
青い海、白い砂浜、とくれば、次に来るのは水着美女だろう。同じゼミに美女がいないのであれば、現地に賭ければいいのだ。実際、旅行に参加する野郎共の半分以上は、現地の水着美女目当てである。ちなみに残りの半分は、彼女がいるからと余裕ぶっている。見てろよ、今に逆転してやる。
「残念ながら、水着のお姉さんに見せられるような身体じゃないんでね」
さして興味もなさそうに、涼やかな顔で肩をすくめて見せる友人。
すかしたことを。
「……そういえばお前、彼女とかいないのか?」
朔とは去年の春、同じゼミになって初めて知り合った仲だが、そうした話は今まで聞いたことがなかった。服装にやや野暮ったさはあるものの、顔だけ見れば端正な顔つきをしている。彼女の一人や二人、いたとしても不思議ではない。そう思って訊いたのだが、完全に興味本位の質問に、その端正な顔が不愉快そうに歪んだ。
「前も、同じようなこと言ってきたな」
「そうだっけ」
答えをもらった覚えがないから、てっきり初めて訊いたのかと。友人は片眉だけを吊り上げて、皮肉交じりに笑ってみせる。
「さぞおモテになるんでしょうな、だったかな。初対面でそんなこと言われるとは思ってもいなかったから、よく覚えてるよ」
「……あー」
思い出した。
ゼミの初顔合わせの飲み会で、それなりに酒の回った頭で、確かそんなことを言ったのだ。
お前、眼鏡外したらイケメンそうだよな、さぞかしおモテになるんでしょうな。とかなんとか。
そしてそれに対する答えが、鼻で嗤うという朔の行動だった。
よく、仲良くなれたな。俺。
「その……、悪い」
「別に、酔ってたんだろ。気にしてないよ」
トランプを片付ける横顔は、言葉通り、本当に気にしてはいないようだった。綺麗になった机の上を、トートバッグから取り出された紙束の山が占拠する。サンプル数欲しいから、大島も答えておいて、とそのうちの一部をこちらに投げて寄越す。几帳面に整えてから綴じたのだろう、断面がぴしりと揃えられた紙束は、どうやら卒業論文用の調査用紙のようだった。堅苦しい表題が書かれた表紙を裏にして、曖昧に答えてから友人を見る。
「……で、どうなんだよ。彼女」
「まだ引っ張るのか、その話」
「今までまともに答えてくれなかったじゃん」
これ答えるからさ、と受け取った用紙を広げる。別に最初から回答する気でいたのだが、普段そういった話をしないだけに、こういうタイミングでもないと話してくれないような気がした。
最初は困惑気味だった表情も、次第に呆れ顔に移っていく。そして観念したかのように、ひとつ、大きくため息をついた。
「昔は、いたよ。価値観が合わなくて別れたけどね」
「今はいないのか?」
「いないし、特に女性と付き合いたいとは思わないかな」
卒論もあるしね、と左上の角が折れた調査用紙を抱えて立ち上がり、ゼミ室の窓際にある、備え付けのパソコンの電源を入れる。データの入力でもするのだろう。
「というより、女性に興味がなくなってきた、というのが正しいかもな」
「男に興味が出てきた、とか?」
冗談のつもりで言った言葉に、朔の動きが止まる。その朔の反応に、俺の動きも止まる。
……そういえば、今ここには俺と朔以外に誰もいない。
北部屋のゼミ室内は薄暗く、ブラインドの隙間から入ってくる光は頼りない。周囲には人気もなく、聞こえてくる音といえば、空調機の機械的な音と葉擦れの音。そしてやたらうるさく響く心臓の音。
パソコンに向かうため、こちらに背を向けていた朔が振り返る。逆光になった友人の顔を見て、一年前のあの夏の記憶が脳裏を掠める。
「さ、朔さん?」
そう呼びかけた声は、少し震えていたかもしれない。表情の読めない友人の顔から、目を離すことができない。
「お、おい。なんとか言えよ」
一歩、こちらに歩み寄る朔。どうすればいいのかわからず、俺は立ち上がることさえできない。
「大島」
「待てよ、言っとくけど俺はノンケだ。ノーマルだ。男同士っていうのはちょっと、そうだな、無理だ。いや、朔とは友達ではいたいけど、それ以上は、な? わかるだろ?」
二歩、三歩、と間隔を詰めてくる。さほど広くないゼミ室で、一歩というのは致命的だ。あと一歩踏み出せば、その手は俺に届くだろう。
「大島――」
「だからその、ごめん。俺はその――」
「なんで僕が君に言い寄っているような言われ方をされなきゃいけないんだ」
はあ、というため息が聞こえてくる。目を凝らせば、そこに立っていたのは呆れ顔をした友人だった。男を喰わんとする狩人は、どこにもいなかった。
「女に興味がないなら、男に興味があるんじゃないか、という短絡的な思考に呆れて、声も出なかっただけなんだけどね。告白したわけでもないのに振られるとは」
俺の横を通り過ぎ、電気をつける。昼間とはいえ、電気がないとこの部屋はやはり薄暗い。だが、恥ずかしい勘違いをした直後に明るくされるのは、なんとなく辱められているような気がしてならない。
「まあ、君が同性愛者ではないというのは、よくわかったよ」
「すみません……」
「コーヒー、飲むか」
「いただきます……」
穴があったら入りたい。というかむしろ、埋まりたい。
その日の夜、夢の中に朔が現れた。
夢の内容については、俺の沽券にかかわるので、伏せさせてもらう。
ただ、一言だけ言うのであれば……すごく、積極的だった。
*
翌朝。大学直通バスを降りて時計を確認すると、一限目が始まるにはまだ時間があった。構内のコンビニにでも寄るかと進路を変えたところで、見慣れた横顔にふと足を止める。
教室へ向かう途中なのだろう、構内で見かけた朔は、女性陣に取り囲まれていた。
あれだけはっきりと女性に興味がない、と言っていたのに、と思いつつ遠巻きに見ていると、ひとり、やけに朔との距離が近い女性がいた。
小柄な、美人というよりは、可愛い女の子、といった容貌。上目遣いは決してあざとすぎず、それでいて小悪魔的な印象を受ける。
そんな女の子に腕を取られ、朔は平然とした表情で話している。
まるで、それが当然のことのように。
「朔」
「ああ、大島か。今日は早いね」
話しかけられても眉一つ動かさず、しかしさりげなく組んでいた腕を離して距離を取る。そのしぐさが、何故か慣れているように感じられた。
「あ、朔ちゃん、次テニスだからそろそろ行くね」
そう告げて、彼女たちはばらばらと去っていく。
少し悪いことをしたかもしれない、と思う反面、少しだけ満足している自分に気付く。
……満足? 一体何に。
「女には興味ないんじゃなかったのか」
内心の動揺が悟られないようにと、少し突き放すような言い方をした。
「嫉妬でもしてるのか」
「そ、そんなわけないだろ!」
そう叫んでおいて、その声が予想以上に大きかったことに、自分自身が驚く。
なんだ、これは。
これじゃあまるで、本当に嫉妬しているみたいじゃないか。
「そんなに全力で否定するなよ。友人がモテて羨ましいって、素直に言えばいいのに」
いたずらっぽく、朔が笑う。
「あ……そう、だな。羨ましい」
そっちか、と思う自分がいた。
そう思う自分が、わからなかった。
そっち、とは、どっちのことだ?
俺は今、何に対して嫉妬した?
「どうした、顔色悪いぞ」
眼鏡を通さずに覗き込んでくる目は、やけに色っぽくて。
その端正な顔立ちも、長い睫毛も、赤く柔らかそうな唇も。
「俺、もう行くわ」
これ以上、見てはいけないと思った。
何事かを言う朔の声を無視して、次の講義のある教室へと走った。余計なことを考えないように。芽生えた何かを振り切るために。
本編へ続く