キーリーウェルの復讐


「どうしたんですか、社長。急に呑もうだなんて」
「社長はよせ。プライベートだろ」
 目の前に座る男、社長のカタナガが酒瓶をこちらに寄せてくる。
 慌ててグラスを差し出すと、とろりとした琥珀色こはくいろの液体がガラスの側面を滑る。杯が満ちれば、ぽちゃんと落ちる赤い果実。キーリーウェルの蜜酒。甘さの中にスパイスが香るこの酒が、カタナガのお気に入りだった。
「それで、どうしたんですか。学生の時以来、一度も飲みに誘ってくれなかった先輩が」
「そう言うな。おれも忙しかったんだ」
 わかるだろ、と肩をすくめて言う姿は、確かにオノマタの知るかつてのカタナガだった。学生の時分、まだ青かった頃の。今となっては初老と呼ばれてもおかしくない見てくれだというのに、今でもこんな顔をするのだな、などとオノマタは思う。
「ちょっとばかり、おれの考えをお前に話しておこうと思ってな」
 人の悪い顔だ。直感がオノマタに危険を伝える。こいつはろくでもない話だぞ、と。
「帰っていいですか」
「おお、いいぞぉ。だが、今ここで聞かなかったことを後で後悔しても知らんぞ?」
 ろくでもない顔をしている。確実に「みんなハッピー、いいニュース」なんてもんじゃない。知らなくてもいい事は知りたくない。だが、今後それをテロのような形で知らされるよりは。逡巡しゅんじゅんし、上げかけた腰を、下ろす。
「利口な選択だ、オノマタ。では、話をしようか」
 ぐんにゃりとカタナガの口角が上がる。やはり帰ればよかったとは、言わないことにした。

「さて、我が国ヤノハラと、カイナン国の小競り合いについては、お前も知っているな?」
 カイナン国。その単語が出た瞬間に、オノマタの嫌な予感は増幅する。
「ええ、あの――パワハラ国ですね」
「はは、お前も言うねぇ」
 カイナン国。ここヤノハラから海を渡り、一万キロ程北上した先にある巨大国家。
 ここ数年で飛躍的な技術的革新を遂げ、人口・経済ともに見事に世界第二位にまでのし上がった豪腕国、というのが世界での表向きの評価。
 実際にはその技術革新も、概ねわがヤノハラ国から吸収したもの。そして手にした巨額の富も、そのほとんどを上が搾取さくしゅし、末端までは届かない。人口増加により広がる経済格差は、未だ根深い問題として存在している。ここまでの飛躍的な進歩は、そうした問題を軽視し、無視した上に成り立っているといえるかもしれない。
 持てる者は常に自身の利益を求め、持たざる者には与えられず。カイナン国とはそういう国だった。
 貧困層にはほとんど目を向けず巨大化した国家は、今や世界の君臨者だとばかりに各国を見下す始末。領土、領海の侵犯、密漁を繰り返し、それでいて自分に非はないと主張する。批判をすれば、今度は難癖をつけ始める。お前のこれが気に食わない。だから関税を上げてやる。しかしこれは不当な引き上げなどではないぞ、元々はお前の行為が引き金なのだから、と。
 それが、オノマタの形容する「パワハラ」の意味だった。
「また、カイナンのマーケットで何かあったんですか」
「カイナンの取引先とは順調だよ。仕事に対する熱意もある。多少がめつさはあるが、勤勉でよくやってくれている」
「じゃあクレームとか」
「あるにはあるな。イチャモンをつけるのが上手いよ、あの国の連中は」
 だが、口振りからすると、どうもそれが本題ではないらしかった。
「なら一体」
「なに、カイナン国から手を引こうという話さ」
「…………は?」
 カイナン国から手を引く。それは捕まえた鯛をみすみす手放すようなものではないかと、オノマタは掴みかかりそうになる。一方のカタナガはと言えば、オノマタがどんな反応をするかと楽しむかのように見つめていた。
「社長もそろそろ初老とはいえ、いかんせん耄碌もうろくするには早すぎるのでは?」
「ははあ、耄碌ときたか。うん、他の奴に言われたらはっ倒してるな」
 おれはいいんですか、と問えば、お前の容赦のなさは知ってるよ、とカタナガ。信頼されていると言えば聞こえはいいが、どうにもオノマタにはオモチャにされているようにしか思えなかった。
 飄々ひょうひょうとして、どこか捉え所がない。それがオノマタが抱くカタナガ像だった。
「正気、ですか」
「正気だからこそ、こうして先にお前に話してる。本当に頭がイカれてるなら、株主総会でぶちかましてるさ」
「何故、カイナンから手を引くと? 現状流通ルートも確立できてますし、売上も上々と聞いてますが」
「だからだよ」
「は」
 グラスに入った蜜酒を、カタナガは一息に飲み干した。底に残ったキーリーウェルの果実を口に放り込んで、これが美味いんだ、と子供のように笑う。カラコロと口腔内で弄ばれる赤い果実。蜜酒漬けにされていれば多少は甘かろうが、要はスパイスの塊だ。あんな辛いものをよく食べられるなと、オノマタの方は顔をしかめてしまう。
「販路拡大、顧客獲得、市場における地位の確立。ここまでは予定通りだ。随分と長いことかかったがね」
「長いことって。一代でこれだけ大きくしたんですから、それだけでもカタナガさんの功績でしょう」
「そりゃあ、なぁ。ま、オノマタの経営戦略も大したモンだったぜ?」
「何が目的なんですか」
 逸れかけた話をもとに戻して、オノマタも蜜酒のグラスを空ける。甘ったるい中に、スパイスが毒のように舌を痺れさせる。
「……少し、昔話をしようか。オノマタ」


本編へ続く


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