言の葉を    
 伝えられない
     あなたへ Ⅰ


 第一章 最後の人



「新堂!!」
 バン!
 頭に衝撃が走る。そこそこの速度で投げられた消しゴムは、ゴムのくせに軟らかくない。
 机と一緒に何処までも堕ちてゆくと決めた俺の決意を、茅野かやのは同意してくれた筈なのにコレは一体どういうつもりだろう。まだ一時間しか寝てないのに起こされた。
「いい加減に勉強しなさいよ、せっかく部室貸してあげてるのに」
「部室ってここ図書館だし、貸して貰った憶えないし」
 文芸部の部室はちゃんとある、ただ茅野かやのの文庫サークルは部ではなくサークルなので部室はない。必然的に皆の利用する図書館が部室代わりとなる。そろそろ文芸部に頭下げて入れて貰えば良いのにと思う。でも、新入荷本の借し出しを独占して行う鬼畜文芸部(茅野談)へのアンチテーゼとして、文庫サークルは存在しなくてはならないらしい。
「テスト勉強しに来たんじゃないの?」
「いや、俺はテスト勉強している茅野かやののペンの音で睡眠学習しに来た」
「なに真顔で言ってるのよ。あんたこの前の英語、赤点圏内だったじゃないの、今回落としたらマジメに補習じゃないの?」
「ダイジョウブ、自信はある」
「実力はないでしょうが・・・」
 人の心配をしていられるほど茅野も学力が良いわけではない。でも飽きずに勉強出来るだけ当然俺よりはよほど良い。
「自信あるなら何しに来たのよ」
「睡眠学習しに来た」
「へ~睡眠学習死にに来たんだぁ~」
 茅野のシャーペンがカチカチと無駄に伸ばされてゆく。〝に〟が一つ増えただけでやたらと物騒な言葉になった。でも俺は最愛の机と離れる気はなかった。
「じゃあ帰る時になったら起こしてくれ」
「もう帰るんだけど」
「あ、そうなの? じゃあ帰るか~」
 伸びをしたら机の下の消しゴムが目に入ったので、拾ってやろうと手を伸ばした。正面に座る茅野と机の下で目が合った。
「何?」
 すごまなくても良いんじゃないだろうか、別にスカートの中を覗こうとしたわけでもないんだし。
「消しゴム拾おうと思ったんだけど」
「あっそ、」
 後十センチかそこらにあった消しゴムがさらわれていった。茅野のものだから別に良いんだけど。
あらたは部活良かったの?」
「写真部は暇なのさ」
 嘘である。写真部はもう無い。部員減少のため、準備会が終わったのを区切りとして美術部と統合され、写真部は無くなってしまった。
「それは良かったわね、帰りの準備があるから先に下駄箱に行ってて」
「あいよ」
 帰りの準備というか本を借りてくるだけだろう、一応文庫サークルだし。先に下駄箱に降りて茅野を待つ。どうして彼女でもない奴と一緒にいるのかは、今更な気がして考えていない。俺が家に帰りたくなくて、茅野が一番暇そうにしていたからとか何とか、たしかそんな理由だった気がする。
 未だに俺はアイツの下の名前を知らないし。何とか子だったと思うが・・・。
「本当に待ってたんだ」
「待ってろって言っただろ?」
 手提げ鞄に本を入れた茅野が階段から降りてきた。黄色の発色がやたら良い鞄なので遠くからでもすぐ分かる。
「あ、嘘。雨降ってるシ」
 校門の方を見た茅野がようやく気が付いた。俺は図書館にいた時から気が付いていた。ついでに茅野が今日傘を持ってきていない事も知っている。
「小雨だな」
「私は本持ってるから濡れたらまずいの!」
「あ~じゃあ俺の傘貸すよ」
「裏がありそうね」
「いやだな茅野さん、ソンナコトナイデスヨ~」
「購買で金貸しをやっていたのは誰よ」
「そんな悪徳な奴が居るのか」
「教科書のレンタルもやってたわね」
こすい奴もいたもんだ」
「内職の代行まで最近は手を伸ばしているそうじゃない」
「手広くやってるんだな~」
「今度は傘のレンタル?」
「疑り深いね、タダだよタダ」
「じゃあ借りる」
 紺の傘を茅野に手渡す。茅野は受け取るとパッと開いて、手元でくるりと傘を一回転させた。小降りの雨は夜まで降って、それから朝凪の風に流されて東に去って行くだろう。
「行くわよ?」
「ああ」
 自然に隣を空けてくれる茅野は結構良い奴だと思う、だから俺は本の入った重い手提げ鞄を持ってやろうと思い、手で掴んだのに無言で振り払われたので反動を利用して傘を奪いに行ったら足を踏まれたので更に踏み込んで傘を掴もうとしたら肘で脇腹を刺された。
「痛いぞ、茅野さん」
「あんたが挙動不審だからでしょうが」
 優しさは死んだ、何故だ!
「鞄か傘、どっちか持とうとしたんだ」
「抱きつこうとしてきた様にしか見えなかった」
「うん、不可抗力を望んでいた部分もある、コレがいわゆる未必の故意」
「秘密の恋? 何? あんた私に告白してるの?」
「するわけ無いだろ、お前みたいな卵焼きにマヨネーズぶっかける狂気の女に」
 返答は顔面への肘鉄だった。
「新堂、その辺で顔洗ってきたら? 鼻血でてるわよ」
「その辺ってお前指してるの地面じゃねぇか、そこには水溜まりしかないぞ」
 俺が鼻を押さえて反論している間も先に行かず、律儀に俺の頭上にも傘の端が掛かるようにしてくれている茅野は、本当に良い奴だ。
あらたは進路決めたの?」
 唐突だった。俺が鼻血を止め歩き出した時に、茅野は空気を一変させる質問をした。
「・・・・・」
 茅野だって知っているはずだった。俺が進路を決めていない事、それもワザと。
 理由までは話した憶えはない。だけど、もしかしたら茅野は気付いているのかも知れない。
「まだ決められなくてさ、俺やっぱりバカだか・・」
 バカだから・・その続きを言う前に茅野の言葉が食い込む。
「私は時宮に行く、」
「・・・・・そうか」
 何故俺にそんな宣言じみた事をするのか分からなかった、了解を何とか口から出したけども、正直面食らっていた。
「茅野の学力なら丁度良いんじゃないか? 駅も近いし」
「うん、そうなんだ」
 律儀に真っ直ぐ保たれていた傘が、茅野の肩にもたれ掛かってクルクル回る。
「あんたも早く決めなさいよ」
「その内な~」
 相合い傘はいつの間にか俺を追い出して、曇天どんてんさらされた俺に雨が降る。
 時宮高等学校、ここら辺じゃあ上の方の学校だ。当然俺の今の学力だとかなり怪しい。だがまだ一年ある事を考えると、まるきり無理という訳でもない。
「じゃあな」
「じゃあね」
 俺の傘を持って茅野は自分の家に向かった。後ろ姿の傘がまた一回転した。ポツポツと視界に雨を捉えながら、茅野の揺れる傘の後ろ姿を見送る。
 何かがオカシイと、俺はこの時茅野を引き止めるべきだったのだ。想像だにしない事が往々にして起きるこの浮き世で、軽率に、俺はこの瞬間を見送った。
 遠くの踏切と、近くの心臓の音が重なる。
 カーン、カーン、カーン、
 赤い光が足元の水溜まりに反射して、俺の手を染める。
 か、・・・。
         ・(次の日)
「茅野」
 呼びかけはへりくだりもせず偉そうにもせず、それでも友達同士のものとは少し違って馴れ馴れしくもなく、自分でも何処から出したのか不思議なくらいの音頭で呼んでいる。
 ソイツは少しの間無視して、手元のペンと消しゴムを筆箱にしまって、鞄を机の金具から取った所で俺の方を向いた。俺が用件を言わないのでまた無視に戻って、鞄に教科書とノートをしまうソイツは、いたって普通に俺を居ないものとして扱っていた。
 教室では大抵そうだった。俺も自分の机に戻って帰り支度を始めた、呼んでおいたので今日も図書館で勉強をしてくれる筈だ。
 こんな関係をずっと続けている。特に親しい気もしない。友達並みに一緒に居るのに、名前以外はほとんど知らないからだ。さっきの変な音頭は、無関心を装いつつも、構ってほしいから出たものだ。そんな奴はアイツしかいない。
 アイツは教室を出る時、わざわざ遠回りをして俺の机まで来て、帰り支度をする俺の膝を歩きながら鞄で叩いて行った。
 ドカ!(OK、先行ってるわよ)
 俺は受付ベルの扱いを受けた膝を机の内側に入れて、最後の教科書をリュックに仕舞った。一連の流れは別に習慣化している訳でもなく、何も無い時もあればちゃんと声を掛けてくれる時もある。
 準備が済んだので教室から出て図書館に向かう、テスト期間も中盤に差し掛かると、勉強のために早めに帰る奴と、遊ぶ奴と、遊んでも上位に居られるのでだらだらしている奴の三種がハッキリ分かれる。俺はその他に入る。
 図書館のドアを開ける前に、窓の外を確認しておく、コレも習慣ではない。昨日が雨だったから一応だ。曇り空は一点の晴れ間も無く、今にも降り出しそうな暗雲が漂っていた。折りたたみ傘はリュックに用意してあるものの、コレで二人は無理だしな、アイツ傘持ってきてるよな?
「・・・・・」
 図書館には俺とアイツしかいなかった。無言で正面の席に座る。アイツはもう教科書を開いていて、律儀にテスト範囲に印を付けていた。帰ってからそれを目印に重点的にやるのだろう。机に頭を落として横目に手元の動きを追った。ノートを取り出したから計算問題の練習でもするのかと思ったら文字を書き出した。
(今日もねるの?)
(英語の単語だけでも憶えたら?)
(せんせい)
(ここに)
(ストーカーがいまーす)
(イエーイ)
「俺はストーカーじゃねえ」
(あ、ソ)
 バインダーからそのページだけ取って俺の頭に乗っけると、その手は勉強を再開した。
 以降、記憶は無い。机が俺の意識を飛ばした。多分机には、教科書に反応して睡眠を誘発する成分を飛ばす塗料が・・・この言い訳をすると怒られる気がする。止めておこう。アイツに怒られると凹むんだが、ホッとするのも確かで、定期的に怒られる事をする。・・・今はまだ大丈夫。そう、まだ大丈夫。
「・・・」
 ドカ!
 膝を叩かれて起こされた。この堅さは鞄じゃない、なんだ? アイツの足か?
 目を開いて下を覗くと、タマネギが転がっていた。何でタマネギ? 手に取ると違った、電球だった。寝ぼけてるな俺。
 机の下でアイツの足を探す。ああ、隣に居た。
「なに?」
「電球交換して、」
「何で」
「切れたから」
「自分でやれよ」
「あんたの頭、踏み台にしても良いならやるけど」
「じゃあ二十秒以内で頼む」
「をい!」
 久々にアイツの食い気味のツッコミを聞いた。
「わーったよ、やるよ」
「ちょっと、足元いいの? まだ目が寝てるわよ」
「おーー」
 間延びした応えを言いながら机に乗る。電球の交換は二十秒よりかかった気がするので、頭の貞操を差し出さなくて正解だったようだ。
「終わった」
「じゃあ帰ろ」
「ん」
 時計を確認すると、昨日帰った時間ぐらいになっていた。
「先生は?」
「居ないわよ」
「この電球どうすりゃいい?」
 切れた電球の処理に困る。
「燃えないゴミは校舎裏の青バケツじゃなかったっけ?」
 頼りない答えである。
「先生呼んで来いよ、聞けば分かる」
「・・・・」
 急に無言になった。同時に視線がいきなり切られた、変なこと言ったか?
「帰ろ」
 声の音が強さをもった、不機嫌にしただろうか、コイツは結構大らかなんだが。
「ああ」
 これ以上言うと状況が悪化しそうに思えたので従っておいた。校舎を出るまで無言を貫いたソイツは、雨が降りそうな空を校門の前で見上げて。
「降らないかなぁ」
 と言った。やけに印象的だった。片手に電球を所持したままなのでその所為かもしれない。
「明日は傘持って来いよ」
 別れ際に無装備のソイツに指摘を入れると、また視線を切られた。
「分かった」
 一応了解してくれたみたいなので、気にしないで置いた。
         ・(次の日)
 アイツは結構友人と付き合わない、昼は一人で食べるし、話をするのは決まった数名だ。俺が見ていないだけで他のクラスに友人がいるのかも知れないけど。
 俺はちゃんと友人とつるんでいる、部活が無い時だけ帰りたくなくて周りをうろつくのだ。だから普段俺達は話すことも近付くことも無い、あちらから来る事はほとんど無いし。
 昼休みになったので友人と席を囲んでメシを食べていると、友人Aが昨日の俺の事を聞いてきた。お前図書館で勉強してたのか? と、意外そうに言う、失礼だな勉強しようとして寝てたと答えると、一同笑う。
「一人で図書館で寝てたのかよ、テスト期間中に」
「いいじゃねぇか」
 一人ではないと言ってもいいが、関係を探られるのも面倒くさいので適当に流す。別に何も無いけども。
「誰かと一緒じゃなかったっけ?」
 そう言った友人Bは昨日、図書館に本を借りに立ち寄ったらしい。
「誰かと同じ机に居たような気がするンだけどな~誰だったかな~」
 横に三列、前に二列離れた席をみる。一人で弁当を食べている。俺と変な噂になっても迷惑だろうし、突っ込まれたら誤魔化そうかと考えていた、結局友人達はそれ以上俺の話題に切り込んでこなかった。テストはどうとか、あのゲームの難易度がどうとか・・・話題には事欠かない。
 午後の授業を適当に受けて、欠伸をしながら取ったノートの出来は可もなく不可もなく、多分今回も曲芸のような低空飛行で赤点を回避するハメになると思われる。
 キーン・コーン・カーン・コーン
 授業が終わり掃除をして、帰りの会が一瞬で終わると、またいつもの光景が見える。
 アイツに声を掛けようかと思ったら、もう席には誰も居なくなっていた。先に行ったのか、それとも俺の低空飛行に付き合いきれなくて勉強しに家に帰ったのか、どちらでもいいや、俺のする事はそんなに変わらない。すなわち、限界まで家に帰らない、だ。
「居たー」
 図書館に行くと昨日と同じ席にソイツは居た。無言でこっちを見ていた。どうも様子がオカシイ。
「どうした? 教科書も開かずに?」
「・・・・・」
 先に来たなら勉強を始めるのがいつもなのに、机には教科書どころかペンも置かれていない。おかしな所はまだある。椅子は机を向いておらず、俺の居る図書館の入り口に向いていた。入ってきた俺と正対している。
「私が見えるのか」
「は? よく見えるケド?」
「私の名前言えるか」
「下の名前は知らねぇぞ」
 何だ? 何かのごっこ遊びだろうか? 幽霊ごっことか。
「名前を言え!」
「茅野?」
 名前を言えと言われたから言った訳では無かった。妙な空気に疑問を込めて名前を呼んだ。
「そっか・・・」
 納得された。
「いいよ、何でも無い。勉強しヨ」
「変なやつだな~」
 特に何も無かったので俺も昨日の席に着いた。
「今日は何の勉強するんだ?」
「昨日の続き、あんたも一緒にする?」
「まー、たまにはやってみるかなー、それで何の教科やるの?」
「昨日目の前でやってたでしょうが、数学Ⅰよ、スー学」
「あぁー、やる気がなくなったぁー」
「あんたいつもないでしょ」
「いやー今日は国語の気分なんだよなぁ」
「国語と世界史しか平均点取れないからでしょ、苦手な所もやらないと順位上がらないわよ」
「いーよ順位は」
「何でよ? 推薦もらえるのよ?」
「推薦されてまで行きたいとこない」
「そればっか、親が泣くわ」
「泣けばいいよあんな奴等、」
 くだらない事だ、親の評価なんて、この世で一番くだらない事だ。
「ノートは取ってる?」
「一応」
「じゃあ公式の使い方は?」
「昇竜拳のコマンドなら」
 小手先をクイ、クイ、とひねると、その手を掴まれて更に時計回りに一周捻り上げられた。
「イデデデデ、タンマ、タンマ、茅野さん待ってー。少しふざけただけじゃないか」
「場面考えなさいよ、別に私ここで勉強しなくてもいいんだけど?」
 家に帰った方がはかどるタイプらしい。
「一緒にやろうぜー、俺帰りたくないんだよー」
「はいはい、分かってるから」
 後ろ髪を掻いて俺を見ている姿はいつも通りである。さっきのは気のせいか何かだろう。
 暫く二人で、無言の勉強会が始まった。せっかくなのでテスト前に出された課題を進めた・・・。
「帰るわよ」
「ん~」
 問題集の最後の問題がさっぱりワカラナイ。問題は問題で問題を問題に。
あらた、それ次のテスト出ないわよ?」
「え! そなの」
「そなの」
 必死こいて考えても、どうりで解けない訳である。
「ひどい出来・・」
 去り際に俺の手元の丸の数を見て言葉を詰まらせたソイツは、俺を待たずに先に行ってしまった。俺は急いで帰る準備をして図書室を出た。下駄箱で合流できた。
「今日はどっか寄ってかないか?」
「買い食い? 校則で禁止されてるからヤよ」
「そーかい」
 マジメな奴である。帰り道はお互い歩きなので結構時間が掛かる。俺の家は線路の反対側にあるので、早々に陸橋を渡れば良い、でもワザと遠回りをして時間を掛けて帰っている。家に帰りたくないので。
「・・・・・」
「・・・」
 互いに無言だった。話している方が珍しいのだ、共通の話題は少ないし、互いの接点はもっと少ない。歩いている方向が同じで、時間帯が同じで、同じ道路を歩いているだけ、そんな関係。暇つぶしの相手に丁度良かったから隣に居るだけだ。
「あんたって私の下の名前知らなかったのね」
「興味ないしな、名乗られた憶えも無いし」
「失礼な奴ね」
「まーな」
 自覚はある、多少。
「最後に子が付くだろ?」
「付かないわよ、」
「アレ? そうだっけ?」
 おかしいな、そんな気がしていたんだけど。
 歩くペースが実は俺の方が早いので、歩幅を調節している。今日は特段に歩くのが遅い。いつも一〇歩の横断歩道に一三歩掛かった。
「教えようか?」
「いいよ、どうせ呼ばないし」
「・・・それもそうね」
 下の名前で呼んだらそれこそ馴れ馴れしい。俺とお前はそんな仲じゃない。でもそう言われると俺は下の名前で時々呼ばれている。どうも具合が悪い。
「じゃあね」
「ああ、じゃあな」
 分かれ道に来たので適当に言葉を交わして別れる。来週からテストが始まる。今週中に残っている課題を終わらせないといけない、憂鬱だ。
 一人で歩く帰り道は先程とほとんど同じで、アスファルトに残らない足跡が一人分になっただけ。歩く速度を上げて、先程の空気を振り払うと共に、頭を切り換える為に上を向いた。
「はぁぁぁあ」
 盛大な溜息を一つ、できれば誰かに聞こえて、同情でもしてくれたら嬉しい。家に帰って課題をやって。・・・同級生全員がやっている事だ。当たり前に過ごす平日だ、それが面倒でならない、家に帰る事が何よりも。
 眉間に自然としわが寄る。癖が付いてしまったのだ、もう取れない。しみったれた顔のまま玄関の前まで来た。扉に手を掛けて一息吐く。これから、二階の自分の部屋に走り込もうと、玄関を開けようとした時だった。胸ポケットに入れた携帯が鳴った。
「誰だよこんな時に」
 画面には非通知の文字、別にためらう必要もないので即、通話ボタンを押した。
「もしもし、新堂ですけど」
「・・・・・」
 無音。
「モシモシ?」
「・・・・・・」
 五秒待っても無音は続く。あと十秒無音だったら電話を切ろうと思った。
「私だ」
「ああ、お前か」
 番号教えた憶えが無いので、寝てる間にでも見られたのかも知れない。
「なにか用か?」
「会えないかな・・・出来れば食べ物屋さんで」
「いいよ、着替えるからちょっと待ってろ、何処で待ち合わせる?」
「駅」
「分かった」
 アイツと学校外で会うのはコレが初めてだと思う。意外だった、まさか誘われるとは。
 速攻で着替えて駅へ向かう。中学生なのでファミレスで十分だろうと考えながら、何の用か考えないようにしていた。
 駅前は小さい街のくせに不相応なくらい栄えている。人混みがあるのでもう一度電話しないと合流出来ないかも知れない。
「してみるか」
 携帯を取り出した所で誰かに足を踏まれた。
「イタ!・・・何だお前か」
「遅い」
「遅くねぇよ、駅前が広いだけだ」
 制服の靴底は硬いので結構痛い。そろそろ足どけても良いのになぜか踏んだままだ。
「どうするよ?」
「そこでいい」
 滅茶苦茶適当に指を迷わせた後差したのは、リゾットが定番メニューの二十四時間営業のファミレスだった。緑の看板が駅前でもそこそこ目立っているので、指を差したのはそれが理由だろう。
「いいけど、奢らねぇぞ? 彼女でもないんだし」
「いいよ、一緒に入ってくれれば」
 アイツは制服姿のままなので、薄い灰色のスカートが電飾に照らされてそれなりにかわいい、それなりに。目線を上げれば、胸元の薄桃色のリボンが際立つ。まぁ悪い顔じゃないんだが、俺の好みはもっと優しそうな雰囲気の人だ、ウサギみたいな。アイツは目つきが鋭すぎる。寅年だしな。・・・俺もか。
 ウィーン、
 店内に入る。
「いらっしゃいませー、お一人様ですかー?」
「いえ、二人です」
「ではこちらにどうぞー」
 夜メシ時なので中々混んでいる。でも奥のテーブルはまだ少し空いていた。
「どうぞー、お決まりになりましたらお呼び下さいー」
「あ、すいません、おしぼり二つください」
 若い店員は、俺の所にしか水とおしぼりを置いていかなかった。
「はーい。分かりましたー」
 返事だけはよく残して、店員は去って行った。
「変な奴」
「・・・・」
「何食べるよ、それともドリンクバーだけか?」
「・・・・はぁ」
 溜息をつかれた。傷ついたぞ今の。
「まさかここで俺相手の特別授業か? 勘弁だぞ」
「・・ふ、ふふ、違うわよ」
 今度は笑われた。
「あんたって、ほんと鈍いなー、と思って」
「・・・・・」
 嫌な予感がする。何か言われる予感がする。機先を制しようとメニューを開いて、目に付いた料理名を言おうとした。
「ち、・・・」
 一言目で口が止まった。アイツの顔を見たからだった。正確には、その静止した目を。
 眼差しは深く静かで、何処までも暗かった。
「・・・」
 俺も覚悟を決めた。待つ事にした。二人の間に挟まったメニューを下に置いて、その眼差しに答えた。口の中で汗の味がする。
「・・私が見える?」
「見えるケド」
「そう、じゃあ試して見ましょうか」
 ピーンポーン、
 呼び出しのボタンを押すと、間もなく店員がおしぼりを持ってやって来た。
「はい、お伺いします」
 俺の前に二つ目のおしぼりを置くと、店員は俺の方だけを見て注文を待った。
「私はチーズリゾット」
「・・・・・・・・・・・・・・」
 店員は動かない。注文がはっせられたのにペンを走らせない。アイツはそれ以上何も言わないので俺が再度注文した。
「あの・・・チーズリゾットを一つ」
「ご注文は以上ですかー?」
「あ、え?」
 まだ俺が注文していないのにその台詞はオカシイだろ。
「あ、すいません。二つでお願いします」
「はい、分かりましたーお待ち下さいー」
 あの店員は研修だろうか? すこし抜けている。店員の背中を見ながら同意を求めると、求めた相手は俺の手元からおしぼりを取って笑っていた。
「まだ分からないんだ」
「何が」
「じゃあ賭けようか。チーズリゾットは二つともあんたの所に置かれる」
「そんな訳あるか、さては店員とグルだな」
「違うわよ、」
 前屈みに寄ってくるので制服の胸元が広がる。それくらいで動揺しかけて目が行った自分が憎い。
 しばらくすると店員がチーズリゾットを二つ持ってきた。
「お待たせしましたー」
 カチャ、カチャ、
「・・・・どういうことだ」
 店員が去ったのを確認して、訊いた。
「見ての通りよ、賭けは私の勝ち、ごちそうさま」
 アイツが手元に引き寄せる皿の値段に興味はなかった、今の出来事、いや、この店に入ってからの出来事が気になって仕方がない。
「お前、幽霊か?」
「そう見える?」
「全然」
 うまそうにチーズリゾットをスプーンですくって食べている。こんな非常識な幽霊はいない。幽霊に常識を当てはめるのもどうかしてると思うが。
「食べたら?」
「あ、ああ、・・いただきます」
 促されたので一口食べた、でも手を止めて食事より気になる事を優先した。
「それで、どういうことだ」
「・・・みんなが私を忘れたのよ」
「忘れた?」
 オウム返しに訊いた。
「みんな私が見えなくなってるの。あんた以外」
「そんな訳あるか、こんなにハッキリ居るのに」
「居るのに、よ」
「・・・・・」
 まじまじと見ても別に変な所はない。変わったと言えば、眉の角度がいつもよりなだらかになっているくらいだ。
「マジか?」
「マジよ」
 スプーンを指で軽く持ったまま頬杖を突いているので、疲れているんだと勝手に思った。
「いつから?」
「一週間くらい前からだと思う。少しずつ関係の薄い人から私の事に気が付かなくなっていって、今はもうあんただけ」
「・・・なんで俺?」
「知らない」
「もっと仲いい友達とか居るだろ、いや、それより家族は? 家族はどうなんだよ」
「今日家に帰ったら玄関に鍵が掛かってた。だからここに居るんじゃない」
「・・・・・」
 何も言い返せなくなった。何を言ったらいいのだろう。慰めるのが正解か? それとも気の利いたジョークでも飛ばせばいいのか? 家族に忘れられる、そんな有り得ない事が起きた奴に何て言えばいいんだ?
「どうしてそんな風に」
「さぁ? ほどほどに真面目に、悪い事もせず目立ちもせず、生きて来たからじゃない?」
 リゾットの皿にスプーンを滑らせて、最後の一口をすくった手は、動かしていないと震えていた。
「どうすんだよ」
「何が?」
「これから」
「さぁ、学校行く意味なくなっちゃったしね。テストも受けられないだろうし、勉強止めようかな」
 食べ終わった皿を俺の皿に並べて、顔は窓の外を向いていた。
「行きたい学校あるんだろ」
「行きたかった学校ならあるわよ」
「何で諦めてんだよ」
「何で諦めて悪いのよ」
「自暴自棄になるなって言ってんだ」
「・・・何処に希望があるのよ」
「お前、いい加減にしろよ!」
 硝子張りの窓の外を見て、頬杖を突いたままの投げやりな言葉に苛立った。
 店内の目が全て、大声を上げて立ち上がった俺に向いた。
「新堂、独り言は静かにね」
「・・・・・」
 俺をなだめる見上げた目はとても静かで、それでなんだか解った気がした。一週間あったのに何もしない訳はない。コイツはコイツでいろいろ試して、頑張って、希望に縋って戦って、それで今日、誰にも気付かれなかったのだ。
「俺には見えているぞ」
「うん、なんでかね・・・」
 机の反対側から伸ばされた手が俺の指を求めていた。
「あんたは・・・・・いつまで私を憶えていられる?」
 耳に、踏切の音が響く。
 カーン、カーン、カーン、
 電車の通り過ぎる音が窓を震わせた。
 俺はソイツの名前を、呼ぶ事が出来なくなっている事に気が付いた。手の震えと答えを誤魔化すために含んだ水は、ゴクリと変な音をたてて喉の奥に落ちていった。



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