第一章 妹の問題
妹には誰も知らない友達が居る。当然兄の俺も遭ったことがない。学校だけではなくこの家にも出入りしているらしい。妹から名前を聞いていないので、ただ友達と呼んでいる。妹もただ友達と呼んでいた。ソイツは一人で、どうやら会話が出来るらしい。最近では、妹の部屋から話し声が聞こえる時がある。
おかしいなと思う時間帯の時もある。それでも深く追及はしなかった。妹との仲は険悪ではないものの、・・・何というか、微妙だった。あえて話題に出せる程会話があるわけでもないし、自分が高校受験で忙しいのも理由の一つだった。今もその勉強中で、妹の部屋がある隣の壁からは、いつも通り妹と友達の話し声が聞こえている。もうかれこれ二時間は話しているのではなかろうか。時計の針は午後十一時を少し廻ったところである。
集中力が途切れたので、背もたれに背中をあずけて溜息を吐いた。今日はこのくらいで終わろうと思いノートを閉じる。隣の会話は発声が分かる程度で、内容までは聞き取れない。興味があるわけではないけど。
「・・・・」
「・・・」
「・・・・・・・」
少々不気味だった。
普通に考えるなら、友達と電話をしているのだろうで済む。しかし携帯を持っていない妹の場合それは有り得ない。ならば友達が部屋に居るのだろうか。それはもっと有り得ない。ここはオートロックのマンションだ。来客に気付かない筈はない。
電話でもない、部屋に居るのでもない、だが妹と友達の会話は続いている。
「・・・」
「・・・・・」
どちらかが言葉を発し、それに応え、答え、応え、・・・。
ああ、有り得ない。数珠つなぎに連鎖する会話は途切れることなくもう二十は連鎖したか。これから眠りにつく自分は、後どれだけの時間この会話を聴くことになるのだろう。妹の部屋の扉を開け、会話相手の正体を確かめたい誘惑に駆られると共に、知ってはいけないのだと自覚している自分がいる。扉の向こうにナニがいるかは誰も知らない。何かが居てくれた方がまだましだ・・・。
両手で前髪を後ろに掻き上げた。声が漏れてしまいそうだった。〝ああ〟とか意味の無い呟きではなくて、多分意味の込められた物が漏れる。勉強で疲れた所為にしてしまいたい、断じてこの苛立ちは妹の所為ではない。昏い言葉をアイツに向けるのは兄貴失格だ。
アイツは産まれたときから弱かった。大人しくて、人見知りで、人の言葉にいちいち敏感で、三日前に言われた舌打ちにお腹を壊したりする奴だった。友達が出来たのなら、本来は喜ぶべきなのだ。
背もたれに最大限背中を預けて天井を眺めても、そんな気持ちにはなれそうにない。
天井には〝諧謔〟と書かれていた。俺が書いたものだ。
正確には去年の冬休みのどうかしていた俺。墨汁で書いたのは間違いだった。未だに消えない。諧謔とは要は洒落の事だ。気の利いたユーモアと言っても良い。分解すると〝皆言虐言〟となる。
「皆が言う、虐く言う」
妹が俺に言った言葉だった。皆から悪口を言われると、そう言うのだ。事実は少々違う、多少じゃれたり、イジられたり、学校生活での友人との会話は悪口半分洒落半分だ。ソレが諧謔というものだろう。だが妹には通じなかった。あいつは人の言葉を聞き流せない。しかもそのまま受け取る。だから皆が自分を虐めるのだと勘違いをしていた。いや、勘違いで済んでいればまだましだった。妹は深く思い悩み、体に変調をきたし、ついに小学六年生の冬休み、学校に登校できなくなった。兄の俺に何が出来たろう・・・知っていたんだ、クラスに馴染めていない事は。だが口を出してどうにかなる問題じゃない。本人の心の持ちようでしかなく、結局ろくに役に立たない応援の言葉しか言えなかった。
そう言えば妹が登校しだしたのは友達が出来る前だったか後だったか。
友達・・・。
隣の壁を黙って見る。白い壁の向こう側に妹の大切な友達がいる。家族の誰も知らない他人がいる。親しげに楽しそうに、この薄壁の反対側にいる。
笑い声が聞き取れた。さて、この声は誰のものだろう。どちらの笑い声だろう。妹はこんなに甲高い声だっただろうか。
俺は白い壁を見ている、その反対側で笑っている。開いたままのノートにシャーペンを挟んで閉じて、俺は立ち上がった。見計らう様に笑い声が止んだ。
「・・・・・・・・・・・」
必要な疑問は〝誰が居るんだろう?〟ではなくて・・・。
「お前は何処から来たんだ?」
なのだ。
放送が終わった深夜のテレビ画面を眺めている気分だった。あの原色がただ並んでいる画面。なぜあの画面なのだろうか? 疑問に思うなら調べれば良い、今の時代答えは簡単に分かるだろう。
疑問に思うなら扉を開ければ良い。簡単に分かるだろう。ああ、簡単だ。
先刻からじっと無意味な風景を眺めている。行動はたやすい、動機が無いだけだ。友達なら俺にもいるし、何も特別な事じゃあない。放っておけよ、気にするな、何でも無い、寝ようぜ、今日も疲れているんだ。
「・・・。」
ドン!
壁を叩く音。
ドンドン!
手で叩いたような小さな音じゃない。背中を叩き付けたみたいな音だ。
・・・・・・・・。
暫く無音。またケタケタと笑う声が響いてきた。我慢にも限界がある、まだ余裕がある内にガス抜きをしないと・・・。このまま部屋で眠る気にもなれず、俺は散歩に出た。ぐるっとマンションを廻って気晴らししようと思った。ポケットに手を突っ込んだまま街灯の下から下へとただ歩く。静かなのは夜だけが理由ではなくて、ここの近所はいわゆる高級住宅地だからだ。
外から自分の部屋が見えた。明かりの消えた部屋。その隣にはまだ明かりの点いた部屋が一つ。我ながら妹のことを気にしすぎだと思う。進路の第一志望が高望みだから、気が立っているのもあると思う。別に進学校と言うわけでもなく、単純に今までの俺の学力がよろしくなかったからなのだが。
おかしな事に、どうして俺はその進路にしたのか憶えていない。確かに乗り継ぎなしの電車で行けるので便利ではある。でも明らかに学力不足であった。今の中学に落ち度はない、俺の頭が足りないのはやる気の所為だ。今それを取り戻している。あの学校に行かなくてはならないと、過去の俺が言っている。どうしてなのかは不明だけれど。
マンションを一周する頃には外の冷気で頭が醒めてしまって、とても寝られる状態ではなくなっていた。でも心の平静はだいぶ取り戻せたので、構わなかった。部屋に戻ってベットの中に入った。このまま隣の気配を聴きながら目蓋が重くなるのを待てば良い。どうせ、いつかは眠れるのだから。
「シンドウ・・」
バッ!
身体が勝手に掛け布団を跳ね上げた、名前を呼ばれたのだ。懐かしい声で。
跳ね上げた掛け布団を踏み越えて、自分の部屋の扉を蹴破る、勢いを殺す事なく、ためらいもなく、俺は妹の部屋の扉に手を掛けた。
バン!
「・・・・・」
そこにあったのは妹ただ一人だった。床に座って、ベットの上の空間に話し掛ける途中の妹しか居なかった。自分の体中が総毛立ったのが分かる。背中を刃物で切りつけられたような衝撃を立ったまま耐える。一人きりの妹は、誰も居ない空間に笑っているのだ。
「新兄ぃ?」
妹は俺に首をかしげた。首をかしげたいのは俺の方だった。お前は何と話しているんだ、俺には何も見えやしない。
「・・・・・」
何も言えずに扉を閉めた。何かいたのか、それとも何かいると妹が思っているのか、・・・恐ろしくなった俺は自分の部屋に戻って鍵を閉めた。隣から話し声が再開されると、俺は兎にも角にも声を聞きたくなくて、大音量の音楽を掛けたヘッドフォンを被った。眠る気などさらさらしない音量だ。それでも静寂よりはましだった。
・
学校に登校中、俺はどうしたらいいのか考えていた。それでも何も答えは出なかった。答えが出ないと、今日も一睡も出来ない事になる。それはマズい。二年の冬に、進路を時宮高校に決めてから、もう丸一年。三年冬の授業は受けとかないと進路に関わるから、授業中も寝るわけにはいかない。ホントどうしよう。妹に事情を聞いてみるか? いいやそれはまだ怖い。
「眠い」
授業中の独り言だった。英単語は後で見直しとこう。スペルが間違ってる気がする。直近の手元を見てもcan`tがcatになってる。お陰で直訳すると〝私は英語を話す猫です〟になってる。寝ぼけてる。
・
放課後になったので部室に行った。最悪そこで寝ようと思って・・・。去年、美術部と統合された写真部は、俺を含めて全員幽霊部員になってしまった。元々の活動実体が既に幽霊的だったので、統合されると共に写真部は空中分解したのだ。統合先の美術部は当然美術室を拠点とし、ほぼ女子部員で構成されている。男の俺は居心地が悪い。なので俺はもっぱら、旧写真部の部室を勝手に使っている。画材など道具一式を持ってきて、出張美術室として使っている。今のところ個室を独占してるも同然なので、居心地は格別だ。
校庭に面した部室は日当たりもいい。個室なので画材を片付ける習慣もなく、書きかけの瓶と靴のデッサンはそのままだし、モデルも置きっ放し。部屋の隅に押しやられた大量の画用紙は、俺が書き溜めしたデッサンやら落書きやら。やってみるまでこんな趣味にハマるとは思わなかった。でも未だに色づけした完品を描いたことはない。よい題材が浮かばないのと、何処かに出展する予定もないからだ。本気でやる気もないし。
机の上を空けて、取りあえず重たくなった頭を倒した。十分だけ寝よう、取りあえず十分だけ。
「・・・・・」
すぐさま寝たと思う。
「・・・・・・」
起きたのは1時間後だった。身体に気怠さがのし掛かる。誰か背中の上に乗った漬け物石とってくれないだろうか。
「あ~~~」
間延びした声を出して上体を起こす。描きかけのデッサンだけでも終わらせとこう、後は陰影を足すだけだし。
シュ、シャ、シャ、シャ、シャ、
鉛筆を画用紙に走らせた。
適当に終わらせると帰る支度をして部室を出た。暗くなる前には帰ろうと、廊下を歩いていた途中、掲示板に見慣れないポスターが張られているのに気が付いた。
〝私営博物館再開のお知らせ〟
ああ、あの博物館やっと改装が終わったのか。日付を確認するともうやっていた。明日辺り行ってみようかと思う。
・(次の日)
昨日の夜も大して眠れなかった。どろりと脳の一部が溶け出して、鼻の奥に溜まっている感覚が抜けない。隣の声が止まないのだ。長時間ヘッドフォンを被った耳は痛み出して、鼓膜がキンキンする。
学校が終わった後、博物館に来ていた。外見は全く変わらない、中の展示を変えたんだろう。
「いらっしゃいませ」
カウンターには高校生くらいの男がバインダーを持って立っていた。
「開館記念中です。名字だけで結構ですので記帳をお願いします」
「ああ、はい」
用紙に名前を書く。ずらっと俺以前にも来館者の名前が並んでいた。ちゃんとお客入ってるんだな。男の首に掛かるプレートには〝沖本〟と書かれていた。
「順路などはありませんので、ご自由に見て回って下さい」
「どうも」
ポストカードを手渡された。ポケットにしまって適当に右回りに歩いた。博物館内は俺以外にもパラパラと人が居た。外見より奥行きがかなりあって、広々とした館内は照明のまばらさも相まって若干薄暗い。展示物中心に当たる照明の所為で、通路を歩く人の顔が見えづらい。展示物はというと、統一性と言う意味ではまったくの出鱈目で、混沌という言葉でのみ言い表せる様相だった。造形物が多い印象だが絵画も相当数ある。一つ一つ見て回る。以前見た時と同じく、タイトルの後、作者の名前の代わりに病名と思われるものが書かれていた。
〝欲望・分失病〟
〝回忌・多層解離症候群〟
〝畸形・双頭種〟
〝黄泉返り・不死感染症〟
〝正体・グリフォン病〟
〝鵺・奇態菌キャリア〟
〝私の過去・幽離起因逆向性健忘〟
何をどうしたらここまでの物を創れるのだろう。一つ一つに作者の魂が籠もっている。時に恐れ、狂態で、混乱の極みに達しながら、亡くし、執着し、また我を失い、この作品群の中でまともな物は一つとしてない、何一つとして美しくない。歪み、無くし、過剰であり、分裂し、破茶滅茶な病態が姿を持ってこの世に現れたかのようだ。人を蝕む、不幸の形態だ。
「や、来たね。いらっしゃい」
俺に声を掛けてきたのは見知らぬ男だった。喪服を思わせる真っ黒なスーツを着た、これまた真っ黒な髪をした男だ、見た目は若い、二十代そこそこに見える。
「気に入った作品はあったかぃ?」
軽薄に笑うのに、口の中は全く笑っては見えなかった。警戒心を隠しながら声を返した。
「まだ全部は見てませんから・・」
「ああ、そうかぃ? 沖本にポストカードはもらったね?」
「もらいましたよ」
「じゃあ大丈夫だ。君は意中の物を手にしたよ。見てみたまえ」
「・・・」
話を合わせることにした。突然なのに馴れ馴れしい男だった。
「ほう、彼か・・・〝be〟〝離神症〟」
ポストカードに写された写真には以前見た彼がいた。
「でも残念ながら、彼は造り主に返す予定で飾ってないんだよ。すまないね」
「えっ」
あ、この男も首からプレートを下げていた。関係者だったのか、名前は・・・暗くて見えない・・・。
「ゆっくりしていってくれ給え」
男は俺の後ろにいた他の観賞客に話し掛けに行った。最後まで薄ら笑いを絶やさない男だった。
「ないのか・・」
ほとんど彼目当てで来ていたのでがっかりした。他の展示物ときたら・・。
〝顔・端子症〟
〝九重花・雲散霧症〟
〝想像・残月症候群〟
〝震え・懐郷病〟
〝今日・トワイライトシンドローム〟
理解を超える物ばかりだ。
展示スペースの奥には、まだ改装中なのかブルーシートに覆われた一角があって、そこを取り囲むように絵画が置かれていた。一応美術部の端くれなので、技術的な観点からも観賞してみる。照明の所為なのか、それとも配置が悪いのか、色使いの荒々しさが見て取れる。黒色がやたらに多い。それと深い青と粘度のある赤。大体これらで色が揃う。何が描かれているか大体の物はわかるものの、全く分からない物もある。川のような物、木のような物、顔のような物。一通り見て回って、結局疲れが増した気がした。何気なく・・・本当に何気なく、俺はブルーシートに隠された向こう側を見たいと思った。何があるのだろうと、些細な疑問の答え合わせがしたくなったのだ。絵画の横を通り過ぎて、人目に付かない博物館の隅、俺は隠された一角を覗き込むために、ブルーシートに手を掛けた。やけに冷たいなと、感覚的に思った。
バリ、
握るとブルーシートは独特の音を出して、俺の手の中で震える。なんで・・・湿ってるんだ? 疑問の先を明かそうと手を引く途中、俺の手に誰かの手が被さった。
「止めや、」
ドキリとした、女の掠れ掛かった声は俺の耳の傍でしている。背後に立たれているのに俺は全く気が付かなかった。振り向いたらぶつかるくらいの距離にその人の顔はあった。俺の手はその人の手に遮られ身動きが取れず、されるがままにブルーシートを離していた。
「やっと来たんね、待ってたんよ」
不自然なほど・・・その人は俺を見ていた。端正に整った顔に不釣り合いなくらいの大きな胸を付けて、腕に掛けられた肩掛けを手繰ったその人は俺を見て、微かに笑う。
「憶えてる? ウチのこと」
「えっとーーーさぁ?」
大きな瞳だった。一見すると胸に気を引かれてしまうが、よく見ると日本人離れした目元の掘りが瞳を大きく魅せている。
「前に携帯拾ってくれたやろ? 知らん?」
「そんなことありましたっけ?」
朧気にそんなこともあったような、無かったような。でもこの目元に見覚えがあったような気がした。
「しゃあないなぁ、改めてや、ウチは市松や、おぼんかて、しやまなすきやての、あんさのもにするよって、はぶかりよんよ」
「あの、すいません、訛りが強すぎてほぼ何を言ってるか分かりません」
話し方は標準語よりもだいぶ離れて、西の方の出身かと思われた。俺の反応に〝ニッ〟と照れ笑って・・。
「さよか、ウチ説明うまくないんや、堪忍してや。貴方のモによってナシがあるんよ」
そう言った。でも結局よく分からない。も? 無しが有る? さっぱり分からない。
「モがおかしいやろ? 〝何とかしてや〟って頼まれてん、ウチ」
俺の周りでオカシイ事なんて一つだけだ。
「〝モ〟って妹のことですか?」
「そうやよ」
ズン!
空気が背中を押した気がした。もしくは胃の中に石が落とされた感覚。芯を打たれた感覚。自分の目が見開いたのに気付いて慌てて瞬きをした。
「誰ですか、なんで妹のことを知ってるんですか」
考える風に市松は少し歩いた。絵画の横を抜けながら俺もそれを追った。見たことのない制服を着ている市松は、考えた割に呆気なく言葉を出した。
「ウチが誰か言っても意味ないよ、信じられへんし。誰に頼まれたか言っても貴方知らんよ、忘れとうから。貴方に大事なことはウチらの正体やない、モのこれからや。ウチのナシ聴いてくれる?」
語感からしてナシとはどうやら〝はなし〟の事らしい。妹のことで話とは穏やかじゃない。妹は今・・・誰も知らない友達の傍で耳を傾ける。隣の部屋に居る〝何か〟は、妹の大切な〝何か〟で、同時に俺には見えない得体の知れない〝何か〟だ。
「聴きます・・・教えて下さい」
「貴方ん妹はね、もうすぐ消えてしまうんよ」
「消える?」
消えるとは・・・どう受け止めればいいのだろうか。
「世界から忘れ去られてしまうんよ」
展示台の段差に腰掛けて、嗚呼この人は慣れているんだなと、髪を掻き上げる仕草を見て思った。薄暗い博物館に同化する彼女は、俺の反応を待った後で、続きを口にした。
「信じられんのも分かる、やから、時間をあげる。信じる気になったらいらっしゃい、この店で待ってる」
指で差したのは展示台に乗っていた絵画だった。タイトルは〝東京リトルガーデン〟、作者もとい病名は〝後天性免疫不全症候群〟。全体的に理解できる部類の絵画だった。ご丁寧にお店の外観をそのまま書いてあるので看板の店名まで読める。確かに〝東京小庭〟と書いてあった。覗き込んだ絵画のお店が実在するとして、何処にあるんだ?
「このお店何処にあるんですか?」
「・・・・・」
居なかった。つい今し方までその人が腰掛けていた段差には、嘘のように空気しかない。話し掛けた俺の言葉は明後日の方向に消えていった。現れた時も唐突で、立ち去るのも突然に、多分あの人はそういう風に生きてきたんだと思う。
仮に話を鵜呑みにしたとして、俺にはこのお店が何処にあるか分からない。不安を不安で割って飲み込んでも何も消化できなくて、ただ意味も無く腹にもたれるだけだった。妹が心配だった。学校でも家でも、アイツのことが心配だった。今日、話してみようかと思った。掻き立てられた不安を解消するには・・・やはりそうするしかない。心に決めた。
館内を一周して入り口に戻って来ると、受付で沖本と誰かが立ち話をしていた。声が聞こえる。
「お客の入りは順調かね?」
「まぁまぁですかね」
「私はもう帰るから、後のことは頼んだよ」
「分かってます」
さっき話し掛けてきた軽薄そうな男だった。やっぱり関係者だったのか。どうも沖本の上司らしい。隣を歩いて抜けようとすると、男と同じタイミングで扉をくぐることになった。
「目当てのモノは見付かったかぃ?」
ああ、やっぱり話し掛けられた。太陽の下に出ても男の髪は真っ黒のままだった。ペンキでもかぶったんじゃないかと思うくらい透明度の無い黒だった。
「探していた銅像が無いのが残念です」
「そうだね、でもそのうち戻ってくるよ。それまでの間、しばしのお別れ、」
変な言葉の切り方をして、男はスーツのまま駐輪場のバイクへと歩いて行った。ひょっとしたら館長だったんじゃないのかと、今更ながら思った。あの男ならこの奇妙な博物館を作るだろうなと、結構失礼な事を考えて見送った。
「帰るか」
用も済んで、帰ることにした。先ず一番に妹に話をしてみよう。どうしてか心に俺を押すものがあったし、理解出来ない事を恐れるのは無知故にだ。大切にしなきゃな、妹なんだから。
・
家に帰ると誰もいなかった。妹は塾にでも行っているのだろうと、勝手に想像して自室に入った。
「・・・・・」
部屋にいつもと変わったところは無い、なのに俺は動きを止めた。すぐに気が付く、匂いとは違う、でも・・・何か空気がいつもと違う。ついさっきまでここに人がいたような、体温で暖められた様な空気がある。
「・・・・・まさかな」
隣の部屋から〝何か〟が移動してきた訳でもあるまいに・・・。
「まさかな・・・・・」
学校鞄を棚に挟んで制服から着替える。妹が帰ってくるまで今日のノートの手直しをしとこう、多分非道い出来だから。
人の気配は暫くすると霧散した。
「・・・・・」
「・・・・」
「・・・」
「・・」
「・」
妹の帰りは午後七時を回ってからだった。両親はまだ帰らない。
「た、だい、ま」
玄関で声がした。
「おかえり」
部屋の扉から顔だけ出して返事をした。玄関にいる妹の姿はまだ見えない。妹の部屋は隣なので、このまま待っていればいずれ来る筈だ。妹と面と向かって話をするのは本当に久し振りだった。家族相手なのになぜか緊張する。
トコ、トコ、トコ、トコ、
肩に掛けた鞄の重さに引き摺られて傾きながら、妹は階段を上がってきた。
「?」
俺と目が合う。久し振りに顔を合わせた妹は、こんな顔だったっけと思うくらい俺の記憶とは違っていた。
「少し時間あるか?」
「・・・」
妹は何も言わないで、首だけで頷いた。
「鞄置いてこっちに来てくれ」
妹を部屋に上げた。頭の中でどう切り出すか考えながら、座る場所を探す妹にクッションを渡した。
「ちょっと、訊きたいことがあってな」
先に何か言いたそうな妹の口を遮って、質問を続ける。
「友達は元気か?」
サッと真横に奔った妹の目線は、その後、下方向で揺れ続ける。
「・・・・・」
「答えてはくれないんだな」
この沈黙が言いたくない沈黙なのか、それとも、答えあぐねた沈黙なのか、俺には分からない。後者であって欲しいとは思っている。
「俺はな・・・俺はよ・・お前を虐めたい訳じゃないんだよ、ただ知りたいんだ。・・・なぁ初菜、教えてくれ。お前今、・・」
〝何と友達になっているんだ〟と言おうとした俺の脳裏に浮かんだのは、自分の胸を貫くあの〝be〟の銅像と、〝ちゃんと兄貴しなさいよ〟と言う、慣れ親しんだ誰かの声だった。
「助け・・いるか・・?」
どうしてこんな問いに変わってしまったのか、俺の口から出た言葉は、言おうとしたものとは違っていた。何からの助けなのか、主語のない問いかけに妹は頷いた、おれの目を真っ直ぐに見つめながら。
置いてこいと言ったのに塾の鞄は妹の肩に食い込んで、放さない。ロウソクを連想したくなるくらいか弱いお前。お前が一体何から助けを求めているのか、俺は知っている。知っていながら、俺は今まで助けなかった。明るみになった意志をもはや無視することは出来なかった。俺は妹を、助けなければならない。この・・・冷え切った家庭から。
妹は何かを追うように目線を上に向けた。
「諧謔・・・」
「ああ、それな」
天井の文字が見付かった。天井なんか見上げるな、ベットの下を覗かれるよりかはましだが。
「今も、皆から虐められるか?」
「ううん、そんなことない。みんな、わたしのこと、無視する、だけ」
「・・・・・」
もっとひどい虐めじゃないのかと思った。けれども、昼に掛けられた得体の知れない言葉と繋がる気がした。〝世界から忘れ去られてしまうんよ〟と、あの女性は俺に言った。まさかな、と不安がさざ波を立てた。
「初菜、お前を守るよ、ちゃんと。だから友達なんかに頼るな、俺が居る」
「・・・・・いい、の?」
家庭にも学校にも、妹の味方はいなかった。だからこそ、妹は目に見えない友達に頼った。それは分かる。けれどソイツに、これ以上任せる訳にはいかないのだ。問題の根治にはならないから。
「友達・・・の、所に。行けたら楽になれるのに、あの人達は来るなって、言う。でもわたしにはここに、生き場はない、の」
「新兄ぃ、わたし・・・もう頑張りたくない。よ」
問題は歴然としていた。あまりにも普通にそこにあって、当たり前に俺達を苦しめてゆく。家庭とは、厄介なモノでありまして・・・。俺達二人は同じ所から産まれて、同じ場所で育った。それこそが全ての原因で、悲劇の始まり。この悲劇を筋書き通りに読み進めれば、ありきたりな破滅へと行き着くだろう。もう目前にそれは見えており・・・だからこそ俺は一歩先にこの悲劇から降りたのだ。
妹を代役にして。
しかして―――、破滅は遠のくことなく妹へ向け猛然と接近する。そして今、明確に妹は助けを求めた。この悲劇を続けたくないと言った。親に支配された気弱な妹の心中を俺は知ったのだ。
〝知った〟とは・・・卑怯な表現かも知れぬ。俺は察していた筈だし、妹の痛みが分からない訳がないのだ。同じ境遇の体験者として。だからこの場合、確証を得たとでも言うべきだろう。俺の逃避の所為で、妹は苦しんでいる。ああ、俺の所為だ。
「御飯、食べるか?」
「うん」
「じゃあ外行こうか。鞄は要らないからな」
「・・・」
それでも鞄は妹に付いてきた。取りあえず駅前に向かった。
駅前の緑の看板のお店に入る、リーズナブルなお値段の割にメニューが豊富なので、妹の好きなモノもあるだろう。
「チーズリゾット一つ」
「わたしも、それがいい」
「じゃあ、二つで」
「承りましたー」
これからどうしようかと考えていた。問題の根治というなら、親との対決の他にない。うんざりとしながら顔に出さないよう窓の外を見た。この店に四人で来た頃のような関係に、戻れるのだろうか。その自答に今は答えを出したくない。
あの家にいる限り、妹の心が休まることはない、そう思ったからここに来ている。しかし、それも一時的な逃避でしかない。結局は帰らなくてはならない。対決というなら、その時だろう。
俺は臆病で情けない、小狡い男だ。親の考えるいい子になることを諦めて、いい子でなければ愛さない親を恨んだ。誰のためにもならない自分の未来に価値はないと諦めて、価値の無い俺を愛してくれない世界は・・・もっと価値が無いと決めつけて、この世のくだらなさを謳歌していた。
そう―――。俺はそんな奴だ。
でも、―――初菜の兄は、そんな俺だけなんだよな。
俺達の望みはたった一つ。俺達が子供でよかったと、アイツらに認めてもらうことだ。それだけなんだ。でも・・・・・その為には言わなくてはいけない事がある、認めてもらわなければならない事がある。俺達はあなた達の望み通りの子供にはなれないけれど・・・いいよね? と。それでも俺達を・・・子供だと認めてくれますか? あなた達の願い事を、叶えられないけど、いいですか?
そう―――。
訊かなければならない。言の葉を伝えなければならない。もしもと・・・・・暗い淵が足元に広がるんだ。
もしも。問いかけの後で―――。
それなら、お前は我が子じゃないと・・・。俺の足元が消えるような事を言われたら、〝俺は何でここにいるんだろう〟と、そう思いながら、暗い昏い淵に落ちてゆく事になるんだ。
説明不能でこの世に在ることが、どんなに恐ろしい事か俺は知っている。何かの間違いで発生した泡のようになるんだ。俺は何かの偶然にここにいるのか? 違う! けれど・・・そうなんだ。
俺が黙って考え事をしていると、目の前の妹は俺の表情を読もうとした。顔色を窺おうと俺を見上げてきた。
チーズリゾットが来るまでの沈黙が、気弱な妹を不安にさせている。黙った俺が機嫌を損ねてやしないかと、不安になっているんだろう。だから顔色を窺おうとする。昔は俺もそうだったよ、初菜。
「デザート食べるか?」
俺は少しでも妹を安心させたくて、表情を緩めた。以前はどんな顔をしていいか分からなかった。でも今は、大切にしたいから分かる。ちゃんと顔を向けてやればいいんだ、それだけでいい。
妹は困った顔で首を横に振った。
「新兄ぃは、チーズリゾットで、足り、るの?」
「あー、目玉焼きハンバーグもうまそうだな・・」
「マヨネーズいる?」
「いらない」
初菜の小さな手からマヨネーズを取って、テーブルのカゴに戻した。
自分の手と初菜の小さな手を見比べる。自然と、なんで俺の手が大きいか分かった気がした。
嗚呼、俺の手は、お前を守るために大きいんだな。
悲劇に駆られて、今にも消えそうなお前、
水溜まりの深いところを避けては通れないお前、
俺が大切にしたいと思ったお前、
俺が大切に出来ていなかったお前、
お前の為に、俺は淵に身を投げようと思う。伝わってくれるといいな。そして、願わくばまだ、アイツらに親心が残っているといい。
第二章 シガイカゲロウ/離神症
「・・・・・」
「お待たせしましたー」
カチャカチャ、
店員がチーズリゾットの皿を持ってきた。
「・・・・・・」
俺の前に二皿とも置かれた。なんだ? ・・・デジャブがする。この光景に既視感がある・・・。並んだ皿を、以前は誰かが取っていったような。
「・・・」
「新兄ぃ?」
「あ、ああ」
突然固まった俺に不安げに声を掛けた初菜に、心配を掛けないように皿を渡した。妹は心配性だ、俺がしっかりしないといけない。
頭から追い出した既視感を再び感じたのは、会計をしている時だった。二人分の食事代を払う時、以前も同じ動きをした気がした。でも気にしないようにするとすぐに忘れた。
「帰るか」
「うん・・」
隣を歩き出した妹は、俯いたまま何も言わなくなった。妹は無口だ。取りあえず黙る。困った時も悲しい時も、怒った時も苦しい時も、黙ったままだ。理由は幾つかある。言っても伝わらないと諦めていたり、上手く伝えられないから黙ったままの場合もある。驚きから来る沈黙や、相手を怒らせるから何も言わなかったりもする。ある意味、沈黙は万能の答えだと思う。どうとでも受け取れるし、答えの一時的な保留にもなる。ただ、本当に答えが必要な時、沈黙に頼ると痛い目を見る事になる。意志がないと判断されかねない。親は常にそう判断した。手取り足取り意志薄弱な妹を操った。〝あんたは選べないのでしょう? じゃあ私達が決めてあげる〟と言うわけだ。
妹は黙ると、何もしなくても物事が進む事に気が付いた。黙れば済む事を憶えた。すると、黙り癖がついた。それが今の妹だ。妹がする事は二つだけだ。
黙ることと。
耐えること。
その二つだけで、生きることを済ませられた。諦めているんだ、自分の意志が通らなくて、そして、相手と対立してまで通すほど、自分の意志が大切だとも思っていない。
妹は無口だ、自分の言葉が必要とされていないと察して・・・。そんなことはないのに。
夜の線路脇を二人で歩く。そう言えばいつ以来だろうか、二人だけで歩くなんて。少し先を歩く初菜はこれから・・。
踏切の音が不意にした。現実ではないような・・・頭の中で響いているような。
カーン、
夜の向こうから聞こえてくるような。
カーーン、
けたたましい音が響く。
カーーーーーーーーーーーーーン、
カーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーン、
身体の横を電車が過ぎ去ってゆく、その車内灯に照らされた妹が、この世界に点滅しているように見えた。音は電車の通過音しか聞こえない筈なのに、妹の声が聞こえる。
顔がこちらを振り返って、妹は何故か別れの言葉を呟いた。
「じゃあね」
ファーーーーン
電車が通り過ぎて、その残響が耳に響いて、妹は目の前から消えていた。全くの影も形も残さずに、瞬きの瞬間に消えていた。
「初菜?」
分かっている筈なのに妹を呼んだ。消えたんだ。呼んでも仕方ない、居ないんだから。
「初菜?」
「初菜!」
それでも名前を呼んでいた。どうして消えた? 何処へ消えた? ああ、まただ、また既視感がする・・・今度のは強烈だ。誰かを忘れたことを憶えている感覚、大切なものを忘れたような感覚。俺は以前も、誰かを目の前で見失った―――?
〝じゃあな〟
頭の中で誰かの声がする。頭を抱え込んで、捉えた記憶の尾を引っ張る。
〝じゃあな〟
〝新堂〟
〝 〟
消えた記憶の正体は分からなかったけれど、誰かいる。俺の記憶の中に知らない誰かがいる。そして初菜がソイツと同じになろうとしている。ゾ、っとした。それと同時に、助けを求めた。博物館で言われたことは本当だった。
〝貴方ん妹はね、もうすぐ消えてしまうんよ〟
ありえない・・・が、有り得た。初菜は消えてしまった。
〝信じる気になったらいらっしゃい〟と言われたお店に行かなくてはならない。助けが欲しかった。孤独の夜が一身に降りかかって、俺は不安に耐えられない。お店の場所が分からないので、取りあえず俺は博物館に向かって道を引き返した。まだあの人がいるかも知れない。遮二無二駆けていた。