朝には簡素な朝食と紅茶を。
昼は主人の昼寝の番を。
夕暮時に主人を起こし、私はひとり、キッチンへ。
零時が来れば、おやすみなさい。
それが、私の日常。
揺らぐことのない、私のすべてだった。
「おはようございますご主人様。伊乃でございます」
二階最奥の樫の扉。その中央を三度叩き、中にいらっしゃる主人を呼ぶ。
朝六時。これが私の一日の始まり。
入れ、という静かな低い声。一拍置いて、失礼します、と扉を開く。
少しだけ重みのある扉を開けば、かすかに香る品の良い男物の香水。右手側にはウォルナットのデスクと、壁一面を埋める大きな本棚。若い頃には海外にもいたそうで、本棚を埋める蔵書の中には、欧米の書籍も混ざっている。
そして本棚の正面、向かって左手にあたるその壁際には、硝子製のキャビネットと、シンプルながら歴史を感じさせるベッドが鎮座する。
その部屋の中を、声の主はと見回して、距離の思わぬ近さに驚く。扉の陰、手前の本棚のすぐ傍に、その姿はあった。
深みのある黒髪に黒褐色の瞳。僅かに皴の残る白いシャツ。うっすらと疲労の色を覗かせて、不機嫌そうに眉間に皺を刻んだこの男が、私の主人だ。
「お休みになられなかったのですね。今日も」
「昼に寝るから構わん。いつもそうしているだろう」
視線は蔵書に落としたままで、肩越しにそう応える。
このやり取りもいつものこと。けれどもやはり、私が休んでいる間も主人が活動しているというのは、メイドとしては微妙なところである。主人の生活に寄り添うのが、メイドの役目だと思っていたから。
とはいえ、口出しなんてできないのだけれど。
「……朝食をお持ちいたしました」
ワゴンに乗せた朝食をテーブルに並べながら言う。厚切りバタートーストにベーコンエッグ、サラダ、コーンスープ、ダージリンティー。相変わらずの質素なメニュー。本来なら、朝であっても豪華な食事を並べるのが資産家というものなのだろうけれど、主人は決してそれを良しとしなかった。
食事のメニューを説明されるのも、華美な装飾も、主人は拒んだ。むしろ、家庭的なものを好んで口にされた。
自分に豪奢は必要ない、と。
「ミルクと砂糖はいかがなさいますか」
ティーポットを傾けて、琥珀色の香りをカップに満たす。ふわりと立ち上る湯気に、朝の始まりを感じる。
「構わん。全部入れろ」
「全部って。容器を見てから言っていただけませんか」
返した言葉にようやく主人は視線を移し、砂糖の入ったポットを見る。シュガーポットには当然、常に一定以上の砂糖が収められている。
「……二匙でいい」
「かしこまりました」
あまりに食に無頓着なものだから、主人の言うことを丸々信じてはいけないと、この一か月ほどで悟った。厳密には、食に無頓着なのではなく、自分のこと全般に無頓着なのだけど。そのくせ私のようなものには、困ったことはないか、何か必要なものはないかと気を回してくださるのだから、どうやって今の地位に付かれたのか、未だによくわからない。
血筋か、あるいはその人柄ゆえか。いずれにしても、そろそろミルクの量くらいは「適当でいい」以外の回答が聞きたいのだけれど。
「ご主人様。本日のご予定は」
本を持ったまま朝食に手をつけ始める主人。行儀が悪いと言える立場に、残念ながら私はない。
「七時に会議に出る。それまでは資料をまとめているから、好きにしていて構わない」
「かしこまりました。念のため確認いたしますが、七時というのは」
「ああ、夜の七時だ」
もそもそと、トーストを口に運びながら主人は言う。
夜の七時から会議とは。また主人のスケジュールに合わせさせたのだろう。部下の方達の苦労を思い、心の中で手を合わせる。
……いや、主人に対して「合わせさせた」なんて口の利き方をしてはならないのだけれど。
「かしこまりました。それでは、私は通常通りの業務をさせていただきます」
「ああ、頼む」
砂糖二杯とミルクがたっぷり入った、濁りきった紅茶を口にして、主人は少し顔を歪ませた。
……ああ、ミルクが多かったんですね。
空いた朝食の皿をワゴンに移し、キッチンへ。
通常通り、と口にしながら皿を洗って、今日の予定を立てていく。
業務と言っても、基本的にやることと言えば、食事の支度と掃除、それから数日に一度の洗濯くらい。
とはいえ、この広いお屋敷の掃除を私ひとりでこなさねばならないのだから、二本の腕ではとても足りない。窓拭き、掃き掃除、モップがけ……まだ済んでいない部屋を数えるたびに、ため息をついてしまいそうになる。幸い「カビが生えない程度でいい」と言われているため、メイド歴一か月の、十七歳の私でも、どうにか清潔は保てている。
せめてあと二人、いや一人でいいから雇ってはくれないだろうか。自分の世話をさせるのが好きでないにしても、やることが減ってくれる訳ではないのだから。
「……ふう」
洗い終えた皿を布巾で拭って、食器棚へとしまう。
実のところ、このお屋敷で私が働ける時間は、それほど多くはない。
主人に朝食を運び終えてから、昼食を運ぶまでの、約五時間。
主人が会議へ出掛けてから、帰宅するまでの、約三時間。
そして夕食をとってから、勤務時間の終わる十一時半までの、約三十分。
合計八時間三十分。合間に自分の食事も摂るから、実際にはもう少し短いか。メイドの平均勤務時間なんていうものがあれば、きっと平均より短いのだろう。他所のメイドから見たら、お前はメイドなどではないと言われてしまうかもしれない。メイドの知り合いなんていないけれど。
……きっと、私のようなメイドはきっと珍しいのだろう。
私は、主人の名前さえ、よく知らないのだから。
「こんなもの、ですかね」
皿洗いを終え、掃除に励むこと三時間。
磨いた床を見下ろして、曲がった腰を軽く伸ばす。決して納得がいったわけではないけれど、これ以上は昼食づくりに支障が出てしまう。まったく、本当に広いお屋敷だ。
この一か月で余程慣れたとはいえ、やはりまだ迷いそうになる。
「早く、覚えてしまわないといけませんね」
仕事に支障が出ては困るのだから。
大広間にある時計の鐘が、あと二時間で昼食の時間だと告げる。自分の食事時間を考えると、少し急いだ方がいいかもしれない。
こういう時、主人が食にこだわりのない人で良かったと思うのだけれど、それはメイドとしてはどうなのか。
……あまり、考えないようにしよう。
「ご主人様、伊乃でございます。昼食をお持ちいたしました」
今朝と同じ、入れ、という低い声。やはり一拍置いて、失礼します、と扉を開く。
「昼は和食がいいとのことでしたので」
ワゴンに乗せた昼食をテーブルに並べる。筑前煮、鱈の西京焼き、法蓮草の御浸し、お吸い物、松茸の炊き込みご飯。やはり質素だ。
並んだ料理をちらと見て、主人の動きがぴたりと止まる。
「伊乃」
びくりと身を震わせる。心なしか、いつもより眉間の皺が深いような。
視線は平皿、白身魚に向けられていた。
「これは、鱈か」
「はい。……その、お嫌い、でしたでしょうか」
確か、嫌いなものはないと。けれど私の記憶違いだったら。怒りを買って、ここを追われてしまったら。
そうなったら、私は。
気付かれないように息を呑み、じっと次の言葉を待つ。さながら判決を言い渡される前の犯罪者のように。
「いや。鱈は魚の中では一番好きだ」
僅かに和らいだ表情に、ほっと胸を撫で下ろす。
魚一匹でここまでひやひやさせるなんて、主人も人が悪い。まあ、わざとなさっている訳ではないのは、わかってはいるのだけれど。
「あの。もしよろしければ、ご主人様のお好きなものをお教えいただけませんか。可能でしたら、今日の夕食にしたいので」
ふむ、と口許に手を当てて少し考え込むと、やがて、
「カレーがいい」
とほんの少し笑って言った。
夕食は早めに仕込んでおかないと。とびきり美味しいカレーのために。
「ご馳走様」
「お粗末様です」
軽く頭を下げて応じる。いつものやりとりだ。主人はどうもこのやりとりが好きらしく、こうすると何故か、満足そうに頷くのだ。
「ところで伊乃。お前はもう昼食を済ませたのか」
「はい。先に済ませておけとのことでしたので」
この会話も、もう何度繰り返されただろう。そんなに心配なさらずとも、命ぜられればそうしますのに。
「さすがに私も、夕刻まで何も食べずにいるのはつらいですから」
「そうだな。いや、食べているのならいい。食べていなかったら悪いと思っただけだ」
照れ隠しのように矢継ぎ早に言葉を連ねる。
私になど、気を回さなくてもいいのに。
「では、頼んだ。何かあればそれで起こせ」
「かしこまりました。おやすみなさいませ」
深々と頭を下げ、主人がベッドにもぐりこんだのを確認して、頭を上げる。
見ると、すでに主人は深い眠りについているようだった。
今でもまだ、少し慣れない。私自身が寝つきがよくないから、というのもあるけれど。それにしても。
ゆっくりと、息を吐くように眠りの世界へ落ちていくこの姿は、何度見ても。
「ご主人様」
呼びかけても、眉一つ動かない。
この一か月の間、眠りについている主人にいろいろやってみた。
たとえば、頬をつねってみたり。
たとえば、大声で叫んでみたり。
たとえば……唇を重ねてみたり。
しかし、何をやっても主人は目を覚まさなかった。覚ます兆候すら見られなかった。
眠りというのはこんなにも、死に似ているものなのか。それが、初めて眠っている主人を見たときの感想だった。
そんな主人が唯一目を覚ます方法が、先程主人が指さした、枕元のキャビネットにあった。
硝子製の小さなベル。その華奢な音色だけが、主人を起こすことができるのだ。
何故その音でだけ、目を覚ますのか。何故夜ではなく、この時間に眠るのか。私はまだ、訊けずにいた。
そして――主人が寝ている間、この部屋から出ることを禁じられている理由も。
規則正しい寝息を聞きながら、主人の蔵書を一冊拝借し、昨日挟んだ栞を探す。
この部屋から出ることが出来ない時間を、ほんの少しでも紛らわすため。
本編へ続く